2017年9月27日
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黄埔路:梧桐茂るところ 故事また多し



およそすべての家屋は旧居となり、またすべては、物語となる。

市内の喧騒の中で、ひそかに静寂を保つあの並木道が私は大好きだ。道の両側に植えらた、空に向かって高くそびえるあおぎりの木、そして路面に投影される無数の木の葉たち。遠くから眺めてみると、見渡す限りの緑とまっすぐな青空がアーチ形になって境を共にしている。こういった素晴らしい景色の中で1箇所お薦めするならばここ、黄埔路。

この通りのあおぎりの木はみな高く大きく、そして逞しい。八方に伸びた太い枝と生い茂る青葉は、頭上の空と絶妙に溶け合い、巨大な緑のトンネルとなって幅広な道路をも包み込んでいる。深い緑とその清々しさに囲まれていると、「ずっとここにいたい。」と誰でも思ってしまうのではないだろうか。そんなこの緑のトンネルにはどこか、かつて上海に瀰漫していた異国情緒あふれる浪漫の香りが、かすかに漂っているように感じる。

緑のトンネルの中に柔らかな木漏れ日が射し入り、木々によって浄化された空気は澄んでいて、とても清潔だ。その中を通ってゆく車も、まるでここの静けさにそっとさとされたかのように、タイヤが地面を擦る音のみを残して、視界のはるか向こうへ走り去ってゆく。
御道街、馬標、小営など古くからここに残る地名は、かつて朱元璋が明王朝の城をこの南京城内東部に築いたことを明らかに示している。

それでは、波乱に満ちたこの地の歴史を今ここで少し紐解いてみよう。

明王朝前期、ここは城の庭園であり、清の時代になると軍の駐屯地となった。八国連合軍が北京を攻略した後、清朝の中央政府は各省に陸軍学堂を設置させ、南京城内にもひとつ置かせた。北伐戦争後、蒋介石は南京を国都と定め、国民党の中央陸軍士官学校(即ち黄埔軍事学校)を陸軍学堂の所在地に移した。また、軍校校長という出身に因る黄埔にかける思いが原因かどうか定かではないが、中央軍事学校の所在地を果断に黄埔路と改名した。そして軍事学校前方の東西にはしる大通りを珠江路と名づけ、この黄埔路と珠江路の交差するところに軍事学校の正門がくるようにした。

建国の父・孫文の逝去後、友人である梅田庄吉がその死を悼んで特別に鋳造した氏の銅像を黄埔路の中央軍事学校の校内に安置した。正装に身を包み、穏やかな表情で講演をしているその姿は、南京の人々にひろく知られている。銅像はのちに新街口広場に移されたが、最終的に中山陵広場に移され、安置された。

黄埔軍事学校が移された後、次々に大量の校舎が建設された。欧風の建築スタイルを基調とし、なかでも大講堂はその特徴を最も巧妙に応用して造られた代表的な建築物である。1929年3月、国民党の第三回全国代表大会はここで召集された。また1945年9月9日の9時丁度、日本軍はこの大講堂にて全中国人民に向け正式に完全降伏を宣言し、撤退した。

大講堂横にある二階建ての小さな洋風建築の官邸はのち、宋美齢によって「憩廬(憩いの家)」と名づけられた。蒋介石は他に二つ邸宅(美齢宮と湯山陶廬)を持っていたが、この「憩廬」をひどく気に入ったためそれらの邸宅に行く事は滅多になく、通常の事務はすべてここ、憩廬で行った。

蒋介石はこの憩廬で、彼の政治界における抗戦前後十一年の歳月を過ごした。憩廬は蒋介石の1931年と1949年の二度の下野、そして南京大虐殺事件前の遷都から抗戦勝利後の首都の返還まで、そのすべての歴史を静かに見守ってきた。また憩廬は生い茂る青桐の樹下にあったため、当時日本軍の偵察機が南京上空を幾度も旋回したが、ついに発見することができなかったと言われている。

蒋介石と宋美齢夫妻が憩廬に居住し始め、1949年に至るまでここはずっと彼らの家であった。夫妻は休日になるとしばしば付近の中山東路にある励志社に赴き、芝居や映画を楽しんだ。宋美齢はダンスを好んだが、彼女は何しろ第一夫人なのでむやみに見知らぬ相手と踊る事を嫌い、特別な情況下でのみ親族の者たちと共に踊った。蒋介石が絵に描いたような謹厳な人物であったのに対し宋美齢は社交的で快濶な女性であり、互いに異なる性格を持ち合わせていたが、かえって非常に均整のとれた二人であったといえる。想像に難いが、もしも宋美齢というこの夫人がいなければ、憩廬はせいぜい事務所として使用されるだけのただの建築物に過ぎなかったであろう。

西安事変の時、夫の救出にむけた解決策を模索するため、宋美齢は憩廬を出て中山東路の孔祥煕公館、北極閣の宋子文公館、漢口路の何応鉄公館等を駆け回った。幾多の曲折を経て、蒋介石は最終的に和平交渉を承諾し事なきを得た。1937年2月26日、蒋介石、宋美齢夫妻が西安から南京に戻った折、中央政治委員会主席・林森率いる中委、各院部会会長、陸軍、海軍及び空軍、そして各省省長ら代表の2000名あまりが大佐専用飛行場にて二人の帰京を熱烈に歓迎した。多くの民衆は夫妻を出迎える為、明故宮飛行場に駆けつけ到着を待った。蒋介石はまず城内を巡回したのち、黄埔路にある官邸で休息をとることにしたが、当日午後国民党政府軍の要人らは我先にと次々に憩廬を訪問し蒋介石の安否を伺った。官邸前は黒山の人だかりで、航空委員会はその篤き敬意を表すため飛行機を憩廬の上空で旋回させるなどし、官邸前はかつて例を見ないほどの賑わいをみせた。1948年の下半期、国民党政権は既に非常に緊迫していた。当年の年末、蒋介石は自身の墓地を鐘山に選定し、憩廬にて蒋家王朝の中国大陸での最後の晩餐を催した。それから二十日後、政権の終結・下野を宣言した。

蒋介石が最後に大陸を去ったのは1949年2月10日、成都の鳳凰山飛行場から台北へ飛び立った。この時より故郷、そして首都・南京と永遠に別れる事となる。

蒋介石が生前にこよなく愛した中央軍事学校と憩廬が一望できる自ら選んだ地に再び戻ることはなく、氏の遺骨は今尚、台湾に埋葬されている。そして黄埔路のこの官邸は、蒋家王朝の大陸における全歴史の完全なる証人となった。

解放軍最高学府である中国人民解放軍士官学校は、軍神と謳われた劉伯承元帥、毛沢東らの抜選・決定によりこの地に建てられ、始業式がとり行われた。劉伯承は自身の解放軍将校による授業を打ち負かせる目的でわざわざ元国民党の将校を教官として招きいれるなどし、すばらしく劇的な展開を見せたこともあった。

建国に貢献した数々の有名な将校たちは皆、かつてここで軍事に関し日夜研究に徹し、造詣を深めた。しかし、1970年の文化大革命の嵐の中、解散命令を受けた軍事学院はその校門を永久に閉ざす事となった。

1986年劉伯承はこの世を去り、その遺言状通り遺灰の一部は氏が自らの作り上げた軍事学院の旧跡に納められた。ここは唯一、劉伯承の遺骨が残された場所となった。

憩廬は軍隊要地の庭園内に建てられていたため部外者はその姿を目の当たりにすることは滅多になく、よってその名もあまり知られていなかった。しかし、国民党の要人たちの回想録の中ではしばしばその名が見受けられた。現在でも黄埔路は依然としてこの名称のままであるが、昔日の中華民国最高軍事学校はすでに解放軍南京軍区機関の庭園と成り、並んだあおぎりの広葉と多くの衛兵らに遮られている。

およそすべての家屋は旧居となり、またすべては、物語となる。南京のように数多くの歴史を持つ古都では、黄埔路、漢中路、長江路等、たとえどの通りであろうとその街角や路地に幾多の事物の変遷や経緯がしっかりと残されており、無言で私たちになにかを物語っているかのように思える。