2017年11月25日
多云 4℃-16℃
南朝石刻の今昔

歴史とは決して複雑なものではない。なぜなら、私たちが見ている歴史のうち、大多数は単なる“遺跡の歴史”だからだ。南朝の古都である金陵には、波風を潜り抜けた一種の悠然さがある。宋、斉、梁、陳、代々の帝王は自らの王権や覇業を引っ提げて、子孫と共に同じ豊かな土地に安住し、現れては去ってゆく。月日は経ち、人々は成長し、壊れることはないと思われていた石獣たちも風によって脆弱な土となり、都市に囲まれたり、草木に身を隠したりと、各々の運命を辿る。前世紀の30年代、人文地理学者の朱偰氏の著した≪建康蘭陵六朝陵墓図考≫には、南京で探した南朝石刻と考えられるものが全部で18個所あり、全個所に詳細な注釈と撮影が行われている。一世紀近い風雨によって、環境が激しく変化することは、今さらどうということはない平常である。朱氏が当年訪れた地方も、全く同じではないだろう。写真をもとに地方を訪れるのは、ある意味月日が多くの景観を変えてしまうことを見るのと同義だろう。

両大石刻群

現在、南京に遺っている南朝石刻は約十個所余りと、多くないが、主な分布範囲は両大石刻群、現在の栖霞鎮堯化門付近及び江寧区上坊、淳化、青龍山一帯となっている。陵内に眠るのは、多くが南朝時代の帝王や王侯貴族たちなので、陵墓は全て比較的豪華に作られ序列立てられており、陵墓の主の身分によって、規模が決められている。陵前の墓道には両側に石刻、石碑、石柱と石獣が各一対設置されているが、風雨の浸食と人による破壊によって、現在は完全な状態の遺跡を見つけるのは難しい。さらに年代の古いものは壊れていたり、欠けているので、眺めたり簡単に訪ねられる陵墓は実際には極めて少ない。

江寧 万安陵
万安陵は郊外の江寧区、上坊鎮万安北路と陳陵路の境にあり、現在は小型公園に改修されており、“万安公園”と呼ばれている。2匹の麒麟が南北を望み、最も標準的な南朝石刻のスタイルで作られており、風食などによる剥落も深刻ではないが、石碑などが失われているため、陵墓とは数えられていない。朱偰氏の≪六朝陵墓図考≫の表紙の麒麟は、この南側の麒麟である。前世紀30年代、この辺りはまだ荒れ果てた水田のみで、村民は魔よけとして水田の中心を窪ませて、その周囲に稲を植えていた。現在、地方政府は万安陵を、亭と呼ばれる小さな建物と、ガラスケースで保護したが、その結果、石刻は保護できたものの、周囲の環境とはあまり調和しなかった。万安陵の主人である陳覇先も英主であったが、惜しくも早世してしまった。もし彼がもう少しの間在位していれば、当時の南北の対峙はもっと早くに終結し、歴史も変わっていたかもしれないが、歴史と仮説は相容れないものであり、事実は往々にして仮説の中で最も決まりの悪いものである。

栖霞 梁安成王蕭秀墓
梁安成王蕭秀墓は現在、栖霞線の甘家巷小学校内にあり、校門を入ればすぐに両側に石刻が並んでおり、墓道が今では学校の入り口となっている。蕭秀墓は依然として室外にあるが、現在石刻の保護のために風化防止の雨よけを加設し、屋内展覧のようにも見える。安成王蕭秀は梁文帝の第七子で、梁武帝とは異母兄弟であり、散騎常侍、司空、安成群王の位を頂いていた。品行方正で、礼節を順守する性格で、とても仁に厚く、また文学の素質もあり、≪類苑≫の編選を取り仕切っており、梁武帝はこの七弟をとても気に入っていた。蕭秀は生前になにか大事を成し遂げたわけではなかったが、死後梁武帝が立派な葬儀を執り行ったため、蕭秀墓は王陵ほど煌びやかではないものの、威厳は失われなかった。蕭秀墓は墓道の両側に石碑、石座、石柱、辟邪が各1つずつあり、石柱は明らかに古代ローマ式に作られている。柱は下が太く、先が細くなっており、溝が刻まれている。柱頭には花の紋様が刻まれており、両側には辟邪が頭をもたげ、舌を出しており、輪郭は簡単だが、造形は勇壮である。

栖霞 蕭宏墓
仙林大道の学則路付近、応天学院左側の路地にあり、地下鉄2号線で行くことができる。蕭宏墓は亭とガラスケースで蓋をして保護されており、墓跡は現在施工中で、まるで公園を建設しているようになっている。蕭宏墓の辟邪は梁時代の力強く勇壮な造形様式を受け継いでおり、保存状態は比較的良く、石柱本体の溝は複雑仔細で、柱頭には多弁の蓮座が彫刻されており、文字も見分けられる。石亀と石碑もまだ残っているが、字の跡は見られない。蕭宏は梁武帝蕭衍の六弟で、梁朝の典型的なお坊ちゃんで、性格は臆病で金にうるさいだけでなく、横領をよく行い、野心家であった。贅沢な生活を望むあまりに帝位を欲し、刺客を送り彼の三兄の暗殺を目論んだ。暗殺は失敗に終わったが、数々の悪事はすでに隠し通すことができなくなった。極めて情の厚い梁武帝が家族に配慮して、最後までこらえて蕭宏の死後も彼に待中、大将軍、楊州牧、假黄鉞、の役職や“礼服のためにお金を集め、靖恵と呼ばれた”という言葉を与えた。思うに、蕭宏がこのような人間だったからこそ、陵墓を訪れる者が少なく、他の陵墓に比べて保存状態が良かったのだろう。

栖霞 永寧陵
永寧陵は陳文帝陳蒨の陵墓で、陳天康元年(566年)に建てられた。南朝遺物の中では比較的遅くに発見されたもので、1956年の文化遺産修復保護作業中に、江蘇省文化局によってようやく所在が確定された。彼は史料によると“百姓の苦労を知っており、自ら困難に立ち向かう。国家を以って税関を倹約し、……真偽をよく知っており、不義を許さず、人々はそれを知り、よく励んだ”となっており、在位は短かったが、統治に励んだ名君と言えるだろう。彼の在位期間に公布された禁奢麗詔、種麦詔などからも彼の質素で思いやりのある統治が見て取れる。陳文帝の早世はとても惜しまれ、人々を本当に残念がらせた。現在の永寧陵は栖霞大道の甘家巷付近、南象山公墓の近くにあり、今もなお腰の高さほどの雑草の中にあり、周囲はたった一本の養魚池近くの野草に満ちた小道しかなく、いばらの茂みには近づく際に注意が必要だし、蚊などの虫にも注意が必要であり、もしかしたら南朝石刻の中で最も荒れ果てた場所にあるかもしれない。石の麒麟の周囲には水路があり、野草に覆われているため、気をつけたほうがいい。雑草に分け入った後、東西に向かい合い、“肘鬃膊焰、騰驤欲飛”と刻まれた一連の白石の麒麟が見られる。鱗や歯はまるで動き出しそうで、両側には雲の紋様が装飾されており、造形は細緻において華美であり、南朝石刻に属するものの中でもっとも精美なものの一つである。理屈からいえば、王陵が廃れることは不幸なことなのだが、実際はそれによって永寧陵は諸石刻中で破損の程度が最も軽微で、雑草によって覆われることで却って永寧陵は破損を免れ、風雨によって浸食された石刻に刻まれた深い溝や谷の他は、一匹の首元にある泥水での修復の痕跡以外には、二匹の石の麒麟は細部の容貌を保ったままである。

現存の南朝石刻を見渡すと、等しく千年の月日が流れたが、現状は同じではない。破損したものもあれば、ほぼ無傷のものもある。これは墓主の身分に係わらず、時間の公平さを見ることができる。同じ帝王の陵墓でも、あるものは保護を受けているし、あるものは荒れ果てた郊外に置かれているが、そこに一定の基準はない。梁武帝蕭衍や、陳文、武帝親子のような一時の豪傑や優秀な王が長江の魚のように去って行ってしまうように、六朝時代の出来事そのものを推測することは難しいが、これらの人物は得てして長くは生きず、全盛期に早世したり、或いは運に味方されずに誰もが喜ぶ結末は迎えられずに、英雄を失った悲しみは幾分も増えていったりするものだ。また、永寧陵の荒廃と無傷、万安陵の水田から公園への移り変わりから分かるように、物事には絶対的な幸福や不幸はないのだから、達成者は喜ぶべきではないし、追求者は悲しむべきではない。だから、現実の生活のなかで、あまり環境の変化に焦り、心配せず、歴史と現在の存在感を比べることで、眼前の存在はよりはっきりと見えるようになる。

王陵前の“西洋石刻”
南北朝時代、宋、斉、梁、陳の4つの時代が都を南京と定め、“辺り一面、帝王陵墓だらけ”となった。南北朝は人々に理解されにくい、社会の揺らめきと文化の繁栄が反比例した矛盾の時代である。北方の名家たちは戦乱を避けるために次々と南へと移り、中国の歴史上初めて南北の知識階級が融合した大規模移動となり、歴史上では“衣冠南渡”と称された。権力と知識を持ち合わせた北方の知識階級の人々が長江を越えてやって来て、江南に一時の繁栄を作り上げた。彼らは南に来てから初めは地方に甘んじていたが、生活が優れ、東晋の文人、士大夫の幽玄としたものを好む伝統を受け継ぎ、思想と芸術において、中央アジア、インドからローマに至るまで東西全ての外来文化を兼ね揃えることによって、魏晋朝の質朴勇壮さと重複せず、唐、宋後期の学者風の古臭さも全くない、南朝の細く、柔らかく、綺麗であり、かつ奔放な芸術様式を形成した。よって、“西方の人の目をもって、六朝隋唐は中国芸術の黄金時代となった”と言われる。私たちが現在見ることができる南朝の遺物は、陵墓や石刻はもちろん文学著作まで、すべて世界中のあらゆる文化の影が見られる。なので、南朝陵墓の石刻の造形芸術にも、往々にして異なる色彩を持ち、墓道の守護者である石獣として、天禄と辟邪が融合した中原固有の獅虎や麒麟が形取られ、さらには双翼が加えられたり、首をもたげて闊歩したりと、アッシリア帝国の有翼石獣の様式を兼ねている。墓道の両側に立つ石柱は、明らかにローマの石柱様式を原型としており、古代ギリシャの華やかさを兼ね揃え、さらには仏教の色合いを持つ蓮の花の柱頭と、獣が伏す底座を持ち、一種のスタイルを成している。“これらの作風は西アジアから起こり……一般的に六朝時代に南洋交通が次第に盛んになって、または海道から伝わってギリシャ、ポウスの作風が南京に至ったと考えられている”このように、見慣れた古物も意外にも西洋文明から来ていると考えると、入り組んだ時空の超越感を感じざるをえない。