2017年9月27日
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玄奘三蔵
地蔵菩薩の霊地で、中国の四大仏教聖地としても知られる九華山。今月は、西遊記のある人物と九華山の間に隠された意外な関係と、歴史ロマンの謎を紐解いてみよう。白馬・玉龍に乗った三蔵法師が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、行く手を阻む悪い妖怪達を倒しながら、幾多の困難を乗り越え一路天竺(現・インド)を目指す…これは、孫悟空のはちゃめちゃな活躍っぷりが痛快な中国の伝記小説『西遊記』の有名なあらすじである。

当時で謂う旅は、現代に生きる我々が想像に難いほど危険に満ちた、それこそ命がけの行為であった。しかし唐代という大昔に、食料や水も十分に確保できなければ、風雨をしのぐ安全な寝床も保証されない長く辛い旅で、実際にインドから経典を持ち帰った人物がいる。西遊記に登場する三蔵法師のモデルにもなった訳経僧・玄奘法師である。

歴史上の玄奘法師は翻訳家、旅行家、哲学家、外交家であり、海外との文化交流の架け橋でもあった。史料によると、玄奘は古代インドほか隣国を訪れては勉学に励み、最終的に仏の道を悟って真の経典を得たという。玄奘の高尚な人柄と智慧に魅せられたインドの国王は、帰国の準備を始めた玄奘法師に「百の寺院とインドの国師号を贈呈しよう」と言ってこのまま留まるよう勧めた。ところが、国王の意に反し、玄奘法師の決心はかたく「早く戻ってこの経典を訳さねば」と残し、各地の仏跡を巡拝した後、長安への帰路についた。

帰還とその後
貞観十九年(645年)、膨大な数の経典を携え長安に帰った玄奘法師を、街中から集まった二十万人以上の民衆が出迎えた。また、玄奘法師の帰還を知った唐の太宗・李世民も早速彼を招聘し、夜を徹して西域からの土産話に耳を傾けたという。この時、李世民は玄奘法師に還俗し朝廷に仕えるよう勧めたものの、「経典の翻訳こそが私の使命です」と言って首を縦に振る事はなかったという。結果、太宗の勅令により弘福寺の翻経院で始められた玄奘法師の梵経翻訳は約七十五部、合計千三百三十五巻に及んだ。一生涯を仏教推進に捧げた玄奘法師は麟徳元年(664年)二月、長安近郊の玉華寺で寂した。

流転する仏舎利
玉華寺で行われた葬儀の後、遺体は長安の東に位置する興教寺に移さたが、この直後黄巣の乱が勃発、寺は大規模な被害を被った。遺体の損壊を恐れた寺僧らにより、玄奘の遺体は終南山紫閣寺に移動、安置される事となる。ところが終南山紫閣寺は唐代末期の度重なる戦乱で落ちぶれ、北宋時代には完全に頽廃してしまう。この時、巡礼でここを訪れた天禧寺の住職・可政は玄奘法師の遺骨が剥き出しのまま放置されているのを発見し、この仏舎利を南京の天禧寺に持ち帰り仏舎利塔を建てて丁重に奉った。ここより、南京と玄奘法師の不思議な縁は始まる。明の時代となり、長干寺と名を変えた天禧寺は歳月と共に頽廃していった。この後朱棣の命令の下、天禧寺が元来あった場所に大報恩寺を建設し、玄奘法師を奉った玄奘三蔵塔の前方に三蔵殿を建てた。しかし、清朝末期に勃発した太平天国の乱ですべては戦火に巻き込まれてしまう。荏苒として時は流れ、今も尚、玄奘法師の仏舎利は大報恩寺の跡地地下に眠ったままとなっている。

稲禾神社と日本軍
1942年11月、中華門門外に駐防していた日本兵らが大報恩寺の三蔵殿跡地に『稲禾神社』を建設すべく大規模な工事を行った際、古文が刻まれた石箱が発掘された。直ちに召喚された考古学者によって解読作業が行われ、結果、玄奘の遺骨がこの地に埋葬されている事と、その一連の経緯が明記されている事が判明した。後に、出土した文物と仏舎利は汪偽国民政府に譲渡され、鶏鳴寺山下の中央文物保管委員会と玄武湖湖畔の九華山三蔵塔下にそれぞれ保管される事となった。当初、城南の普徳寺に保管されるはずであった仏舎利と石箱は風水的に最も良いとされる九華山山上に奉納され、そこから今日の九華山公園が誕生した。

南京新四十景・九華山
太平門内の西に位置する九華山公園は、湖に面した部分の勾配が険しく、転覆した船のような形状をしていることから、古くは覆舟山と呼ばれていた。古代の風水学上、このような山は縁起が良いとされた他、城内の中心から見て丁度北にある為、四神の呼び方にならって玄武山とも呼ばれた。南朝時代には皇家御用達の園林“楽遊苑”が設けられ、納涼の名所としても有名であった。山頂には西安の大雁寺を模して設計された三蔵塔があり、青磁器のような色合いが美しい塔の内部には『玄奘大師霊骨』と刻まれた小さな石碑が置かれている。眼下に広がる南京の風景を愛でながら、小春日和に出かけてみてはいかがだろう?玄奘三蔵白馬・玉龍に乗った三蔵法師が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、行く手を阻む悪い妖怪達を倒しながら、幾多の困難を乗り越え一路天竺(現・インド)を目指す…これは、孫悟空のはちゃめちゃな活躍っぷりが痛快な中国の伝記小説『西遊記』の有名なあらすじである。

当時で謂う旅は、現代に生きる我々が想像に難いほど危険に満ちた、それこそ命がけの行為であった。しかし唐代という大昔に、食料や水も十分に確保できなければ、風雨をしのぐ安全な寝床も保証されない長く辛い旅で、実際にインドから経典を持ち帰った人物がいる。西遊記に登場する三蔵法師のモデルにもなった訳経僧・玄奘法師である。

歴史上の玄奘法師は翻訳家、旅行家、哲学家、外交家であり、海外との文化交流の架け橋でもあった。史料によると、玄奘は古代インドほか隣国を訪れては勉学に励み、最終的に仏の道を悟って真の経典を得たという。玄奘の高尚な人柄と智慧に魅せられたインドの国王は、帰国の準備を始めた玄奘法師に「百の寺院とインドの国師号を贈呈しよう」と言ってこのまま留まるよう勧めた。ところが、国王の意に反し、玄奘法師の決心はかたく「早く戻ってこの経典を訳さねば」と残し、各地の仏跡を巡拝した後、長安への帰路についた。