2017年9月27日
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時空を超えて“三山街”をぬける

三山街、すなわち昔の今州道は、明朝時代、南京で一番の繁華街であった。三山街は、西方は三山門(現在の水西門)、東方は府東街、大功坊(現在の中華路)につながっており、ある十字路の越えてからは大中街(現在の健康路)となる。“三山街”とは一つの大きな概念であり、今日の新街口と同じように、一つの大きな区域を指している。

三山街の永い歴史を語ろう
何百年前もの三山街は官庁の中心所在地であった。近くには中山王府、応天府街、江寧県衙があり、周辺にはさらに工場や市場、店や画廊が点在していた。中には金属工場、錦刺繍工場、颜料工場、弓矢工場をはじめ、皮製品市場、花市場、家畜(馬羊牛)市場、野菜市場もあり、ジュエリー街、紅紙街、表装具街などもあったという。最も賑わっていたところは数承恩寺、笪橋市である。明朝の時代は、三山街と大中街が境となって、民衆の街があったのである。

“人ごみの中で彼をずっと探していた、ふと振り返ると、なんと彼がいたのである、灯がまさに消えようとしている場所に!”これは《青玉案・元夕》の元宵説のことを書いた一節である。《青玉案・元夕》は、辛弃疾の後世に伝わる作品であり、笪橋の「灯会(元宵説に開かれる催し)」について書いたものである。抒情的に言えば、その作者が探していた「彼」は、ただ自ら寂しさを求めて、明るく、騒がしい人ごみから遠ざかり、一人で“灯がまさに消えようとしている場所”に立ったのであろう。

笪橋とは、南京の南部にある秦淮河支流の中でも有名な古い石造のアーチ橋である。宋朝時代に建てられ、今日の玉帯園と洋珠巷の間あたりに位置している。明朝当時、官人であった俞通海の家は秦淮河の近くにあった。(俞通海という名の韻は「魚が海まで泳ぎ着くと龍になる」という故事によく似ており、さらに古代中国で龍は皇帝を指す言葉であることから、)皇帝にとってこれは良くない風水である。これを懸念した朱元璋は、劉基にこの風水を改善するように命じ、劉基は俞通海の家のそばに上浮橋と下浮橋を建設した。この橋が壁となり、ここで魚を釣れるようになった。旱路では、草鞋街(後に彩霞街となる)の前方(南方)の道に魚釣り場を設け、この道も釣魚巷と改名し、同じように草鞋街の後方(北方)の道は趕魚巷(今日の甘雨巷)と改名した。また、俞通海宅の入口に記念のアーチを建て、そこに一百匹の形態のそれぞれ異なる猫を彫刻した。これは猫が魚を食べる動物であることから、魚(俞氏)は食べられよそへ行くことができなくなる、という意味合いである。さらに、俞通海宅の脇の門と裏門を完全に塞いで正門のみを出入り可能にし、敷居も一尺二寸まで高くし、魚を家から跳び出せないようにした。さらに漁師に秦淮河でどんどん漁獲するように呼びかけ、舟板で魚を塞き止めていた場所は船板仓と呼ばれるようになり、網を投げて漁獲していた場所は撒網(今日の沙湾)と呼ばれるようになった。南京の地名、上浮橋や下浮橋、百猫坊、釣魚台、釣魚巷、趕魚巷(今日の甘雨橋 )、斗門坎(今日の陡門坎)、斗門橋(今日の陡門橋)の地名の由来は全てここにある。笪橋は百猫坊の近くに位置していたらしいのだが、いつ破壊し、その跡がどこにあるのか、現在はもう検証することができない。しかし三山街の笪橋の伝説は今でも世々語り継がれているのである。

美人な妻を馬鹿にされ朱元璋が怒った話
中華路を通り、中山南路の西側に着くと、そこは评事街の南側でもある。この上浮橋から半径500m以内の場所が、三山街笪橋の跡地であると言われている。目の前の広い道路や高層ビルが並ぶ様子からは、そこがなんと昔は荒れ果てた土地であったとは想像し難いだろう。康煕帝は南方遠征で南京を訪れたとき、質素な服を着て平民に混ざり元宵節の夜の提灯を鑑賞しに来たことがあった。これは後に《紅楼夢》の作者である曹雪芹が記述している。《紅楼夢》の主人公・賈元春が帰省し元宵を祝っている場面で、笪橋が話に出ているのだ。これは康熙帝が南方遠征し笪橋の金陵の灯会の素晴らしく壮観な様子を鑑賞していたことを暗喩したものである。

明朝初期、评事街は皮市街と呼ばれていた。笪橋は皮市街の南にある。笪橋の灯会は宋元の時代からあったそうだ。言い伝えられている明朝初期の南京の有名な“七家湾事件”の起因はここにある。元宵節の夜、朱元璋一家は目立たない服を着て笪橋に飾り提灯を観覧しに来ていた。灯会を開催していた人は滅びた元朝の遺臣で、七家湾の一帯に居住していた。彼等は灯会で催す“クイズ大会”を通して新しい時代を皮肉していた。その中で、絵に描かれたものを当てるクイズがあった。描かれているのは、大きなスイカを抱きかかえている大きな足の女性。一人の人物を描いたものである。一目見るだけで誰もがそれは皇后を描いたもの
だと分かった。朱元璋の妻を“淮西(皇后の出身地)の女、大きい足の馬(皇后の苗字)さん”と馬鹿にしていたのである。そのため朱元璋は怒り、皮市街の全てモンゴル人と色目人を殺したため、この街には七戸しか人家が残らなかった。それからその街は七家湾と呼ばれるようになったという。

一代の知識層が死刑にあった話
笪橋市場は南京南部で最も賑わっている場所である。皮市街 (评事街)と隣接しており、広い道の両際にこぢんまりとした家屋が並び、隣接したたくさんの店に多くの客が訪れる。明代の有名な“花月春江十四楼”の一つ、安遠楼はここにある。橋のそばが野菜市場の入り口になっている。提灯市場は一年で一回しか開かれず、平常はそこには何もない。明代から清代まで、朝廷はこの空き地に処刑場を設けていた。当時は民衆に法を犯さないよう戒めるため、処刑は賑やかな人目の多い場所が選ばれていたのである。打ち首はすべてこの場所で行われており、処刑の前になると役人によって一時的に処刑台が建てられ、主に官人が犯人に間違いないことを確認した後、大衆の前で処刑する。時が経つにつれ、民衆の間でこうしたしゃれ言葉を言われるようになった。“笪橋市場の新商品がでたぞ―――ろくでなしの!”

ここで最も有名なのは、明代末から清代初頭に著名な文学批評家の金聖嘆である。金聖嘆の字(あざな)は若采、清朝になってから金人端と改名し、字を聖嘆とした。江蘇省の吳縣(蘇州)出身で、完全なる読書人で、清代に入ってから金聖嘆は科挙を受けることなく昇進した。金聖嘆は垢抜けて高貴であり、あらゆることを見下す性格で、かなりの酒飲みであったという。文章を品評するのに長けていて、《水滸伝》を伝奇、怪談が素晴らしいことこの上ないと批評すると、ただちに相当高い名声を得た文学批評家となった。紀元1661年(順治18 年) 7月13日、金聖嘆ら121人が南京の三山街の笪橋市場で打ち首にされた。この痛ましい事件は全国を騒がしたという。

読書人が汚職官吏を摘発・造反した話
現存の資料に記載してあるところによると、金聖嘆の冤罪というべき事件は、順治18 年に起こった。清代、世祖と呼ばれた順治帝(姓名:アイシンギョロ・フリン)が亡くなったという詔書が蘇州に送られた。軍政長官より位が低い役人は皆位牌を立て、次の日から激しく泣き皇帝の死を惜しんだ。なんとこの“皇帝の葬儀”の時期に、金聖嘆など何人かの読書人は団体で張り紙を作り、皆が激しく泣いているところに行って県知事が賄賂を取っていると告発したのである。県知事は賄賂分の金を補おうと群衆から金を催促し、そのために多くの民衆を殴ったというのである。貼り紙の内容は、県知事の汚職は軍政長官の朱国治の命令によるものだ、といったものだった。このことは瞬く間に全国を騒がした。民衆は激怒し、県知事に仇を討ち、恨みをはらそうをと声を上げたのであった。

しかし先に動いたのは朱国治であった。すぐに五人の読書人を逮捕した。金聖嘆これにひどく憤慨し、次の日に皆が位牌に集まって泣いているところに行き、抗議をした。彼らは鐘を鳴らして太鼓を打って、すぐにたくさんの群衆が孔廟にデモに押し掛けた。軍政長官・朱国治がちょうどそのときに大々的に罪を問うた。今回の読書人たちの造反は“何百人もの群衆をまとめあげ、勝手放題なことをし、先帝を悼まず先帝の魂を傷つけた、極悪で、この罪は大きい”と判断されたという。金聖嘆は位牌で泣く人々を招集し、また、張り紙の文章を起草したことからこの事件の主犯であったとされ、“(次の)皇帝の命令”によって死刑の判決を受けた。