2017年11月25日
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涙に濡れたアトリエ

今から遡る事70年前。列車で南京を訪れた者達がまず目にするのは、ここ南京のシンボルでもあった鼓楼北側の坂に生えた大きなポプラの大木であった。高層ビルが林立する鼓楼や湖南路、山西路は、今でこそ賑やかな繁華街として知られているが、当時は木枯らし吹きすさぶ、見渡す限りのさびれた墓地だった。今日はこの地に残された数多くの歴史の中から、ある著名な芸術家とその妻、そして愛人の涙に濡れた愛の物語をご紹介しよう。

当時の南京市民は市の南側に住居を構える事が習慣となっていた。というのも、国民政府が南京を首都と定める“新首都建設”という計画を実行し、民間で空前の不動産ブームを巻き起こしたのだ。この時政府は、住所不定の名画家・徐悲鴻に敷地を与えたものの、当時の徐悲鴻には豪宅を建てる資金がなかった。このため、夫人の蒋碧微は幾度も子供や下女を連れ敷地に入っては、まだ見ぬ“豪邸”に思いを馳せたという。

急激に高騰する地価を鼻先で嘲るように3000大洋の現金一括で広大な敷地を買取った国民党の元老・呉稚晖は知人から資金を募る等して数々の紆余曲折を経た後、1932年12月、徐悲鴻の邸宅を完成させる(傅厚岗4号)。

留学中の徐悲鴻と日本へ駆け落ちした当時、妻の蒋碧微は18歳だった。その後定住場所もないまま数多くの苦難を共に乗り越え、放浪画家である夫に20年以上連れ添った。そしてこの時ようやく落ち着ける二人だけの家に辿り着く事ができたのだ。

同時に、若い頃からヨーロッパ各地に遊んだ夫人の希望で、自宅はお洒落なサロンをイメージして作られた。二階建ての洋館は30年代の建築物としては珍しく、客間から浴室、ベッドルームまでが完備されており、その中でも徐悲鴻の為にあつらえたアトリエは非常に豪華な造りとなっている。籬で囲まれた庭は緑が豊かに生い茂り、梅や桃の木の他にはあの2本のポプラの木もあった。

芸術に心酔していた徐悲鴻は、もともと物欲というものがほぼ皆無の人間であった。幼少期を貧しさに耐えながら過ごした彼にとって、日を追うごとに豪華さを増す家庭は決して心地のいい環境ではなく、かえって、喩えようのない圧迫感で満たされていた。

この時、“九一八”事変が起きて一年余りが経とうとしていた。国の一大危難にあたり、徐悲鴻の新居は『治に居て乱を忘れず』の意から“危巣”と名づけられたものの、不吉だと感じた夫人はそう呼ぶのを嫌った。しかし、夫婦の愛がこの直後、本当の危機の真只中に置かれる事を、この時は誰も予想だにしていなかった。

困難極まる生活は、夫婦二人の愛情を着実に育んでいったものの、他方面において双方の精神的な距離は確実に、そして急速に広がっていた。徐悲鴻は連日、夫人から国民党とうまく付き合って行くために蒋介石の肖像画を描けと勧められ、権力者に媚を売る事をかねてから嫌い拒否し続けていた徐悲鴻は譲歩するどころか、この日を境にもとの放浪生活に戻ってしまった。 それからは抗日劇の運動に参加したり、当局が身柄を確保していた田漢営の脱獄に一役買って出た上、自宅で一時かくまう等した。この事が国民党当局の逆鱗に触れ、結果強制追放される羽目となった徐悲鴻は、広西省等各地を転々としながら抗戦資金を募ったり、蒋介石の天敵である李宗仁の肖像画を制作する等、芸術家としての活動を続けた。

この時すでに、彼にとって長年連れ添った糟糠の妻に対する愛情は、非常に淡白なものへと変わっていたようである。夫婦を決定的な破局へと導いたのは、彼の愛人に対する愛であった。ある日、夫と当時中央大学に在籍中だった女学生・孫多慈の浮名を耳にした蒋碧微は、激昂した。夫人はすぐさま、新居の落成式当日に孫多慈から送られた百本の楓を使用人達にきり倒させ、すべて家の庭で燃やしてしまった。これを知った徐悲鴻はひどく悲しみ、邸宅を“無楓堂”と改名し、そのアトリエを“無楓堂画室”と命名した。これは、誇り高き芸術家である徐悲鴻の夫人に対する精一杯の反抗でもあった。

逢瀬を重ね、日増しに愛を育んでいった徐悲鴻と孫多慈であったが、1983年、孫の父親の反対に遭って二人はやむなく破局を迎える事となる。その直後、孫多慈は知人の媒で当時の浙江教育庁庁長・許紹棣と結婚、当初は離れ離れとなった徐悲鴻と文通を続けていたものの、その後音信不通となる。

抗戦の真只中にあったその頃、徐悲鴻は妻との関係を修復しようと試みるも、なんと相手にするどころか鼻にもかけてもらえない始末であった。それもそのはず、この時彼女は国民党の某党員とすでに“なれ合って”いたからである。最終的に徐悲鴻夫妻が選んだ道は、協議離婚であった。高額な扶養費だけにとどまらず、蒋碧微は彼の絵画百枚を手に入れた。この中には、かつてフランスで夫人をモデルに描いた《琴課》もあった。実はこの絵こそ、今は失われし夫婦の愛の証そのものであった。

1953年秋、偉大な芸術家・徐悲鴻は北京にて死去する。無楓堂は現在、徐悲鴻記念館として一般に開放しており、屋内には1927年から1945年にかけて制作された作品のレプリカと生前の故人を偲ぶ写真等貴重な資料が陳列されている。今から遡る事70年前。列車で南京を訪れた者達がまず目にするのは、ここ南京のシンボルでもあった鼓楼北側の坂に生えた大きなポプラの大木であった。高層ビルが林立する鼓楼や湖南路、山西路は、今でこそ賑やかな繁華街として知られているが、当時は木枯らし吹きすさぶ、見渡す限りのさびれた墓地だった。今日はこの地に残された数多くの歴史の中から、ある著名な芸術家とその妻、そして愛人の涙に濡れた愛の物語をご紹介しよう。

当時の南京市民は市の南側に住居を構える事が習慣となっていた。というのも、国民政府が南京を首都と定める“新首都建設”という計画を実行し、民間で空前の不動産ブームを巻き起こしたのだ。この時政府は、住所不定の名画家・徐悲鴻に敷地を与えたものの、当時の徐悲鴻には豪宅を建てる資金がなかった。このため、夫人の蒋碧微は幾度も子供や下女を連れ敷地に入っては、まだ見ぬ“豪邸”に思いを馳せたという。

急激に高騰する地価を鼻先で嘲るように3000大洋の現金一括で広大な敷地を買取った国民党の元老・呉稚晖は知人から資金を募る等して数々の紆余曲折を経た後、1932年12月、徐悲鴻の邸宅を完成させる(傅厚岗4号)。留学中の徐悲鴻と日本へ駆け落ちした当時、妻の蒋碧微は18歳だった。その後定住場所もないまま数多くの苦難を共に乗り越え、放浪画家である夫に20年以上連れ添った。そしてこの時ようやく落ち着ける二人だけの家に辿り着く事ができたのだ。

同時に、若い頃からヨーロッパ各地に遊んだ夫人の希望で、自宅はお洒落なサロンをイメージして作られた。二階建ての洋館は30年代の建築物としては珍しく、客間から浴室、ベッドルームまでが完備されており、その中でも徐悲鴻の為にあつらえたアトリエは非常に豪華な造りとなっている。籬で囲まれた庭は緑が豊かに生い茂り、梅や桃の木の他にはあの2本のポプラの木もあった。

芸術に心酔していた徐悲鴻は、もともと物欲というものがほぼ皆無の人間であった。幼少期を貧しさに耐えながら過ごした彼にとって、日を追うごとに豪華さを増す家庭は決して心地のいい環境ではなく、かえって、喩えようのない圧迫感で満たされていた。

この時、“九一八”事変が起きて一年余りが経とうとしていた。国の一大危難にあたり、徐悲鴻の新居は『治に居て乱を忘れず』の意から“危巣”と名づけられたものの、不吉だと感じた夫人はそう呼ぶのを嫌った。しかし、夫婦の愛がこの直後、本当の危機の真只中に置かれる事を、この時は誰も予想だにしていなかった。

困難極まる生活は、夫婦二人の愛情を着実に育んでいったものの、他方面において双方の精神的な距離は確実に、そして急速に広がっていた。徐悲鴻は連日、夫人から国民党とうまく付き合って行くために蒋介石の肖像画を描けと勧められ、権力者に媚を売る事をかねてから嫌い拒否し続けていた徐悲鴻は譲歩するどころか、この日を境にもとの放浪生活に戻ってしまった。それからは抗日劇の運動に参加したり、当局が身柄を確保していた田漢営の脱獄に一役買って出た上、自宅で一時かくまう等した。この事が国民党当局の逆鱗に触れ、結果強制追放される羽目となった徐悲鴻は、広西省等各地を転々としながら抗戦資金を募ったり、蒋介石の天敵である李宗仁の肖像画を制作する等、芸術家としての活動を続けた。

この時すでに、彼にとって長年連れ添った糟糠の妻に対する愛情は、非常に淡白なものへと変わっていたようである。夫婦を決定的な破局へと導いたのは、彼の愛人に対する愛であった。ある日、夫と当時中央大学に在籍中だった女学生・孫多慈の浮名を耳にした蒋碧微は、激昂した。夫人はすぐさま、新居の落成式当日に孫多慈から送られた百本の楓を使用人達にきり倒させ、すべて家の庭で燃やしてしまった。これを知った徐悲鴻はひどく悲しみ、邸宅を“無楓堂”と改名し、そのアトリエを“無楓堂画室”と命名した。これは、誇り高き芸術家である徐悲鴻の夫人に対する精一杯の反抗でもあった。

逢瀬を重ね、日増しに愛を育んでいった徐悲鴻と孫多慈であったが、1983年、孫の父親の反対に遭って二人はやむなく破局を迎える事となる。その直後、孫多慈は知人の媒で当時の浙江教育庁庁長・許紹棣と結婚、当初は離れ離れとなった徐悲鴻と文通を続けていたものの、その後音信不通となる。

抗戦の真只中にあったその頃、徐悲鴻は妻との関係を修復しようと試みるも、なんと相手にするどころか鼻にもかけてもらえない始末であった。それもそのはず、この時彼女は国民党の某党員とすでに“なれ合って”いたからである。最終的に徐悲鴻夫妻が選んだ道は、協議離婚であった。高額な扶養費だけにとどまらず、蒋碧微は彼の絵画百枚を手に入れた。この中には、かつてフランスで夫人をモデルに描いた《琴課》もあった。実はこの絵こそ、今は失われし夫婦の愛の証そのものであった。

1953年秋、偉大な芸術家・徐悲鴻は北京にて死去する。無楓堂は現在、徐悲鴻記念館として一般に開放しており、屋内には1927年から1945年にかけて制作された作品のレプリカと生前の故人を偲ぶ写真等貴重な資料が陳列されている。中国の運命を翻弄した二つの政党。政界における長年の宿敵。そしてかつて、心から愛した大切な人。このわずか500メートル足らずの小さな通りには、一体どれほどの憎しみ、そして切なる思いが残されているのだろう。